『流れる雲よ』を観て
先日、舞台**『流れる雲よ』大阪公演**を観てきました。
この舞台を知ったきっかけは、ASTAGEカレッジのプログラム「和の歴史文化」で講座をお願いしている方から薦めていただいたことでした。
本編が始まる前には、日本の歴史についてのお話がありました。
皇紀2686年という日本の長い歴史。私たち日本人と愛国心。そして「君が代」に込められた意味について。
そのお話を聞いたあと、元宝塚歌劇団で、退団後は劇団四季をはじめ数々の舞台で活躍されてきた草笛雅子さんによる国歌斉唱があり、続いて会場にいる私たちも一緒に「君が代」を歌いました。
さらに沖縄戦の歴史や、エイサーには鎮魂の意味も込められているというお話があり、その流れで実際にエイサーが披露されました。
普段なら自然と手拍子が起こり、賑やかになるエイサー。
でも、この日の会場は静まり返り、
観客が、ただじっと見つめていました。

本編が始まる前から、いつもとは少し違う空気が会場を包んでいました。
明日がないと分かっていても、笑っている
物語の中心となるのは、特攻隊員の若者たちと、その機体を整備する人たち。
飛び立つ人だけではありません。
それぞれが、それぞれの場所で、自分の役割を背負って生きている姿が描かれていました。
中でも心に残ったのは、明日、命を失うかもしれない若者たちが、仲間と笑い、ふざけ、騒いでいる姿でした。
仲間と話す。
笑い合う。
騒ぐ。
私たちにとっては、何でもない日常です。
でも、残された時間がわずかだとしたら、その何でもない時間は、どれほどかけがえのないものになるのでしょう。
「自分の命を、何のために使うのか」
物語の中で、若者たちは未来の情報をラジオで知ります。
明日、戦争が終わる。
それなら、今飛び立つことに何の意味があるのか。
それでも彼らは、「日本の未来のために」「国のために」と、自分たちなりに考え、答えを出していきます。
私は、その選択が正しかったのか、間違っていたのかをここで論じたいわけではありません。
時代も違います。価値観も違います。
戦争や特攻を美化したいとも思いません。
ただ、舞台を観ながら私の中に残ったのは、
「自分の命を、何のために使うのか」
という問いでした。
涙が止まらなかった、最後の場面
最後、3人が飛行機に乗り込む場面があります。
舞台上に、本物の飛行機があるわけではありません。
日本刀を操縦桿に見立て、3人が大空を飛ぶ。
そして周囲の出演者たちが両手に持った日本刀が、飛行機の翼のように見えてくる。
この場面では、涙が止まりませんでした。
死に向かっていく若者たちというより、その瞬間、本当に大空を自由に飛んでいる若者たちの姿に見えたのです。
「どう死ぬか」ではなく、「今日をどう生きるか」
あの時代を生きた人たちがいた。
それぞれの場所で、懸命に生きた人たちがいた。
戦地へ向かう人がいた。
その飛行機を整備し、送り出す人がいた。
そして家では、息子の、夫の、家族の帰りを待つ人たちがいた。
飛び立つ若者たちにも、帰りを待ってくれている母がいて、家族がいた。
国のために。
日本の未来のために。
そして、大切な家族のために。
それぞれが、それぞれの場所で懸命に生きていた。
その歴史の先に、私たちの今があります。
でも、この舞台を観て私が一番考えたのは、
「どう死ぬか」ではなく、「今日をどう生きるか」でした。
平和な朝を迎える。
仕事に行く。
誰かと話す。
一緒にご飯を食べる。
笑う。
私たちが「当たり前」だと思っている毎日は、本当は当たり前ではないのかもしれません。
だからといって、毎日を特別な日にする必要はないと思います。
今日会った人と話す。
笑えるときには笑う。
伝えたいことを伝える。
自分にできることをやる。
ASTAGEでは、
「社会に学ぶ、社会の中で学ぶ、社会の一員として学ぶ」
ということを大切にしています。
社会の中で生きるということも、結局は、そんな一日一日の積み重ねなのかもしれません。
遠い時代の若者たちの姿を観ながら、私はむしろ、今ここにある自分の日常について考えていました。
明日のことは、誰にも分かりません。
だからこそ、
当たり前の今日を、ちゃんと生きる。
今日出会った人を大切にする。
今日できることをやってみる。
そして今日よりほんの少し、
「明日をちょっとご機嫌に。」
そんな毎日を、大切にしていきたいと思います。

カーテンコールと献花を終え、静けさが戻った舞台。この日感じたことを、忘れずにいたいと思います。
※掲載写真は「流れる雲よ」大阪実行委員会より使用許可をいただいています。

